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車いすを押す男性

「生と死を分けない」看取りという選択

2026.01.28

お知らせ

私はその人の声を聞いたことがなかった。

年齢や性別、家族構成は知っていた。
けれども、その人はすでに声を発することができなくなっていた。

私は落ち着いた時間があるときは、じっとその人のそばに座り、その人の呼吸に耳を澄ませていた。
その人の声を聞いたことがないのに、きっとこの人は今晩、息を引き取るだろうと感じていた。
だから、できればそばにいて、この寄せては返す波のような呼吸に、耳を澄ませていたいと思った。

酸素吸入はしない。点滴も最低限。
声を聞いたことのないその人の表情は無で、仏のようで。
家族の選択と、現場のケアが、この表情に繋がっていると感じる。
できることはほとんどない。むしろ“しない”からこその表情。

声を聞いたことがないのに、今晩この人に選ばれた、そう思ってしまった。
声を発せなくなったこの人が、言葉もなく、ただ寄せては返す波のような呼吸とともに、私に何か伝えてくれているような、そんな感覚があった。

呼吸が変わった。
看護師が来て、家族が来て、現場でケアを担ってきた人、そして同じ空間で暮らしてきたお年寄りたちも集まった。
多くの人が、その人の最期に立ち会った。みんなで手を合わせた。

夜が明けて、日が昇ると、お年寄りたちは私たちに「朝ごはんまだ」と言った。
そうだ。お腹はすく。
私たちはいつものように朝食の支度をした。
いつもの日々、いつもの暮らしの中に、看取りがあった。

 

「生と死は分かたれていない」と感じた経験

 

私がかつて勤務していた、特別養護老人ホームでの体験です。
この経験を通して私は「生と死は分かたれていない」と感じました。

私が初めて勤めたのは、病院が運営するグループホームでした。
そこは高齢者施設であるにも関わらず「死」はタブーとされていました。
最後まで、お年寄りの意思に関係なく、医療介入を続けることが「正しい」とされていました。

そのような施設で迎えるお年寄りの最期は、いつも苦しそうで、当時二十代前半だった私には、胸が痛む日々でした。
誰かが亡くなっても、他のお年寄りに亡くなったことを伝えてはいけませんでした。
いつも食事をともにしてきた人々であるにもかかわらず。

その後、冒頭で綴ったような、看取りの場で過度な医療介入を行わない施設に身を置くようになりました。
お年寄りがすでに自分で意思決定できない場合がほとんどなので、医療介入をしないことには、葛藤が伴います。
ご家族も、現場でケアを担うスタッフも、様々なことに苦悩します。
それでも、声を発さないお年寄りの存在に耳を澄ませます。

最期を迎えようとしている方に、お年寄りたちは声を掛けます。顔を覗き込みます。
そばで食事をし、ときには酒盛りもしていました。
そんな空間で一緒の時間を過ごされるご家族もいらっしゃいました。

 

みとりえ那須が目指す看取り

 

高齢者

みとりえ那須は生と死を分かたない、そんな場所でありたいと思っています。
日々の暮らしと看取りが、地続きであるようなケアを積み重ねていきます。

挽きたてのコーヒーを飲んだり、
鳥の声を聞いたり、
散歩をしたり、
ひのきのお風呂に浸かったり、
プロジェクターで映画を観たり、
お酒を飲んだり、
本を読んだり、
誰かと語らったり。

スタッフは住まわれる方のこれまでのことにゆっくり耳を傾けたいと思っています。
もちろんご自身のペースで構いません。
ご家族やご友人を招いて、みとりえで過ごす時間も大切にしたいと考えています。

不安に思うことなどを一緒に考え、心身ともに安心して暮らせる生活を支援します。
介護保険制度外の施設なので、柔軟に支援することが可能です。

みとりえ那須には決まり切ったことはなく、住まわれる方と私たちスタッフとの想いの循環によって、それぞれの方の暮らしと看取りのありかたを考えていく場所です。

生と死を分けて考えないこと。
特別なことにしすぎないこと。
日々の暮らしの延長線上に、自然に最期の時間があること。

みとりえ那須は、当たり前のようで見過ごされやすい時間を、住まわれる方とともに紡いでいきたいと考えています。

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